●自灯明

31.平成20年9月23日(火) 秋彼岸会の一席
 演題「自灯明」 布教師 住職(服部潤承)


 
 今年の暑さは、異常という他ありませんでした。ずっと三十四・五度が続いておりましたが、地蔵盆の頃になってようやく涼しくなりました。やれやれと一息入れていましたら、また暑くなり、その上に、よく雨が降って、蒸し暑い日が続いていました。まるで梅雨の再来のようでありました。一年で二回、梅雨を経験したようなものでした。暑い日照りの時は、植木に水をせっせとやりましたことを思いますと、梅雨のような雨もありがたいものであります。おかげさまで今年は一本の植木も枯らすことがありませんでした。そうこう言う内に、秋の彼岸となり、日も短くなって秋の深まりを感じずにおられません。
 春は、畑を耕し、種を蒔く季節でありますが、秋は、実りの季節であります。春に菩提・悟りの種を蒔くと、暑い夏の修行を終えて、秋は菩提・悟りを実らせる季節でありましょう。例え悟りは得られなくとも、心静かに、深呼吸をして、亡き人々に思いを馳せることができましたら、何よりの秋の実りと言えましょう。
 秋の実りと言えば、やはり稲穂が一番に思い出されます。マルコポーロが『東方見聞録』で、日本の第一印象を「黄金の国」と評しました。秀吉の「金の茶室」や中尊寺の「金色堂」を見て行ったのではありません。田圃の黄金に実った稲穂が、整然と首をうな垂れているのを見て、「黄金の国」と言ったものと思います。「実るほど首を垂れる稲穂かな」と言う句がありますように、しっかり実った稲穂ほど、頭が低く、ひかえめさと優雅さを感じさせます。一方、青い稲穂は、頭をピンと立てて、何とも不愛想で粗野なものであります。
 近頃、少しずつ日本の稲作が見直されてまいりました。今までは減反々々と言って、お米の輸入を優先し、稲作を減らす方向に進んでいました。しかし、昨今の日本の食糧自給率の低さと、世界中で食糧危機がさけばれているのと、また、食糧を燃料に替えるバイオエネルギーの開発に力を入れている国が出てきて、それに伴い食料不足と食料品の値上げ等で、日本でも稲作を見直し始めたようです。
 例えば養鶏業者は、今までアメリカからトウモロコシを輸入して、飼料としていましたが、アメリカではトウモロコシをバイオエネルギーに替えるため、飼料として輸入できなくなりました。そこで、トウモロコシに替わってお米を飼料にしたそうです。すると、一味違った鶏卵と鶏肉ができあがったそうであります。そうすることによって、家計は助かり、農家も助かり、一石二鳥・一挙両得と言えましょう。
 お米一粒たりとも大事にする心、粗末にすると目がつぶれると教えられた時代がありました。米と言う字を書きますと、八十八と書き、お膳に出されるまでに八十八の人々の手を経ていることで、粗末に扱えないことを教えられました。日本のよき伝統文化であるお米のご飯を見直していただきたいものであります。
 閑話休題。お彼岸が過ぎますと、日が短くなり、日の暮れるのが速くなりますし、日が沈んでしまいますと、夏と違って温度が急激に下がってまいります。すると火が恋しくなってしまいます。
 以前、この辺りは田圃と畑ばかりで人家はほとんどありません。もちろんバスも通っておりませんでしたので、石橋駅からせっせと歩いて帰ってまいりますと、家のほのかな灯りが目に映り、ホッといたしました。また、今日のようなエアコンなどありませんから、冬が近づいてくると、寒さが身にしみてまいりましたことを昨日のように憶えております。
 火と言うものは、どれほど人の心を和らげるものかわかりません。しかし、この火も一つ間違いますと、なにもかも焼き尽くす猛火となってしまいます。冬になりますと、子供達が拍子木を打って「火の用心」と回っているのを耳にします。昔から火の扱いに注意を促していたのであります。火は扱い方次第で、良くも悪くもなるということでありましょう。

 臨済宗祖の臨済義玄禅師のお師匠さんを黄檗希運禅師と申します。中国の黄檗山萬福寺をご開山された有名な禅僧であります。黄檗希運禅師は『伝心法要』で、次のようにおっしゃつています。

 「小捨は火燭、後に在るが如く、坑穽を見ず。」

 要約しますと、

 「小捨・未熟な修行者は、ともし火をうしろに置くようなもので、自分の影ができ、落とし穴さえ見落としてしまう。」と、灯火の扱い方を注意されています。

 そこで、本日の本題『自灯明』に入ります。二千五百年前の昔、インドのヴェーサーリーで、お釈迦さまが八十歳で亡くなられる直前に、遺言としてお弟子の阿難に次のようなことをおっしゃいました。

「私が亡くなった後は、この無明の世界にあって、自分自身を燈明とし、他を拠り所としてはなりません。」(涅槃経)

 つまり、彼岸の燈明は見えても、その道中は暗く険しいので、自分の足元を照らす燈明は自分でつけ、自分の足で歩く以外に道はないのです。
 燈明は、光と熱を放ちながら減らしてまいります。不惜身命・身と命を捧げることを惜しまない。これこそ布施行の最たるものでありましょう。光と熱を放つ燈明は、我々の人生そのものを表しております。点火が人生の始まりであります。身を焦がして寿命を減らしてまいります。強い風が吹きますと、早く減りますし、火が消えてしまうこともあります。燈明の場合、目に見えて減っていくのがわかりますが、私達の人生は、全く見えないのであります。後、どれぐらい残っているのか、全く見当がつかないのであります。しかし、燈明は刻一刻と、こうしている間にも減りつづけていることは間違いありません。まるで、受刑者が死刑の宣告を受けながら、死刑の執行日がわからないような苦しい心の状態と言ってよいのではないでしょうか。
 自分の人生と言う燈明が、後どれぐらい残っているのか、わからないからこそ、この人生の一瞬一瞬を大切にしなければならないのであります。見えない人生の燈明が、最後の最後、燃え尽きるまで一生懸命に生きなければならないのであります。
 人として、生まれることの非常に難しい輪廻の中にあって、人としてこの世に送り出していただいた喜びを、感謝の気持ちをもって生きなければなりません。



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