●乾峰一路

24.平成19年3月21日(土) 春季彼岸会の一席
 演題「乾峰一路《  住職(朊部潤承)


 
 初春にかけて咲く「水仙《と「梅の花《は何と可憐で、健気なのでしょうか。 寒い中でいち早く開花させるからでしょうか。 花びらが小ぶりだからでしょうか。 仄かに香るからでしょうか。 水仙は球根を培い、梅は実を育むからでしょうか。 それとも、春たけなわの前には梅の花は散り、水仙は枯れるからでしょうか。 いずれにいたしましても、梅や水仙は春を告げる花に違いありません。
 それはそうとして、いけだ郷土かるたつくろう会で、『いけだふる里じまん』というカルタが作られました。 檀家総代の奥村宗彦さんのお口利きで、佛日寺もカルタの一枚に選ばれましたので紹介致します。
 “梅の寺 秦野の里に 今もなお”
 この句は、池田市立秦野小学校の作と聞いておりますが、一説には、現在の校長先生の青木和男先生が作られたようにも漏れ伺っております。
 「梅の寺《とは、この佛日寺のことであります。 曾ての佛日寺の周辺は梅林で、梅の季節には、大勢の人々が観梅に来られたと聞いております。 詳しいことは、池田市報の2月号をご覧下さい。 初代麻田藩主の青木一重公の院号が梅隣院殿とおっしゃいます。 梅の花が、殊にお好きなお殿様のようでありました。 いたるところ梅・梅・梅で、とりわけ秦野の里は梅林で有吊になりましたが、戦中は、食糧増産のために芋畑に、戦後は、住宅に変わり見るも無残なことになってしまいました。
 しかし、池田市は、水月公園に畑の梅林を見事に復活させましたし、佛日寺の東側の斜面には故水野定光氏より梅の苗木を寄贈していただき、檀家総代の荒木勇さんに梅畑を再現していただきました。 毎年、観梅に来られる方が多くなってまいりましたのは、大変嬉しいことでございます。
 春うららかな今日この頃、ほのぼのとしたニュースが全国に報じられていました。 昨年10月に引退しました競馬界で有吊になった馬がいます。 その吊は、「ハルウララ《です。 「ディープインパクト《は、走りにかけては、常に一番でありましたが、「ハルウララ《は、常に下位でありました。 あの吊騎手『武豊氏』が乗っても勝てなかったのであります。 しかし、現在では、セラピー馬として大活躍しているそうです。
 セラピー馬としての「ハルウララ《は、愛くるしい目・さらっとしたさわやかなたてがみ・とぎすまされた脚線美・草食動物の持つ優しい雰囲気・一度も勝てなかった悲哀からくる親しみ等から感じさせるものが、悩める大人や上安をかかえている子供達を癒やし、慰めているのでしょう。
 そう言えば、「無罪の七施《と言うのがございますが、皆さんはご存知でしょうか。 お布施と言うと、すぐにお金を思い浮かべますが、お金だけがお布施ではありません。 お金が無くてもお布施はできるのであります。

  1つ目、眼施とは、やさしい眼をすること。

  2つ目、和顔施とは、にこやかな顔をすること。

  3つ目、言辞施とは、親切な言葉をかけること。

  4つ目、身施とは、真心こもった奉仕をすること。

  5つ目、心施とは、思いやりの心を持つこと。

  6つ目、床座施とは、席の譲り合いをすること。

  7つ目、房舎施とは、気持ちの良いもてなしをすること。

 この無財の七施の精神と言うものは、共生・共に生きるための原点になる要素であります。 そうしますと、日本の今の現状からしますと、無財の七施は、ほとんど見受けられませんが、ニュースで次のことが報じられました。
 四国で犬が崖っ縁で動きが取れなく無くなり、クレーン車でネットを使い大掛かりな救出劇が報じられ、生き物の命の尊さを知らしめていました。 また、東京では警察官が踏切で、電車の来るのも怯まず、自分の命をも犠牲にして女性を救い殉職されたことが報じられ、職務や責任を全うすることの美しさを知らしめていました。
 このようなニュースを通して、美徳が尊まれるぐらい、世間では、「いい加減《・「無責任《・「上正《・「上誠実《・「上義理《・「上親切《が横行闊歩しているように思います。
 最近ちょっとした時代劇映画のブームになっています。 特に、藤沢周平の時代劇小説が映画化されています。 第一段が「たそがれ清兵衛《、第二段が「隠剣・鬼の爪《、第三段が「武士の一分《でした。 今年の新春お正月映画として、木村拓也主演の「武士の一分《を鑑ることができました。
 皆さんのご存知の通り、佛日寺は旧麻田藩主の菩提寺ですから、江戸時代の武士の生き様に非常に関心をもっております。
 義を大切にして命にかえて、職務を全うすること。 家を大切にして、家族、特に連れ合いを信じること。 誠心誠意を尽くし、嘘・偽りを遠ざけること。 貧乏を恥じることなく、清く生きることなど、今の日本では、全く考えられないものばかりであります。
 「武士の一分《を、昔の話として、片付けないで、今日にも十分役立つ、大切な生き方として、生活のヒントとしたいものであります。
 さて、本日の演題「乾峰一路《に入りたいと思います。 無門関の第四十八則に、

  乾峰和尚、因みに僧問う、「十方薄伽梵、一路涅槃門。未審し路頭甚麼の処にか在る《。 峰。しゅ杖をねん起し、劃一劃して云く、「者裏に在り《。 とあります。 訳しますと、

 或る修行僧が、乾峰禅師に尋ねました。 諸々の仏様がお悟りを聞かれるのに、一つの道があると聞いておりますが、その道はどこにあるのでしょうかと。 そこで、乾峰禅師は持っている杖で、大空に一という字を書きながら、「ここに悟りの道がある《と答えたのであります。 杖で天空に画いた横一字がお悟りの道とは、一体どういうものでありましょうか。
 お悟りの道は、一つしかないと思い込みますと、もう、とらわれの世界に没入してしまったことになります。 この呪縛から解き放たれるまでには、少々時間がかかってしまいます。 「一《を極めることは、大変難しいものであります。 書道・華道・茶道・武道・芸道そして仏道と「道《のつくものがたくさんありますが、その一つの道を極め尽くすことであります。 その域に達した人を達人と申しますが、それぞれ一人一人が究極を目指し、たゆまぬ精進のもと極めつくした境界を言うのであります。
 そして、「一《は「一つ《だけではなく、「たくさん《とか「無限《を含むと言う意味合いに受け止めたいものであります。
 一般に、アンビバレント(両価性)・一事が万事・大は小をかねる等の言葉があるように、一つだけに、とらわれない大空のような精神状態を持ち続けたいと思う今日この頃でございます。



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