●主人公

令和6年8月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 先日、五歳の姪と境内を散歩していた時、旺盛に生えてきた雑草が目に入り、不意に「もう草がこんなに生えてきたんや。嫌やな」とつぶやきました。それを聞いて姪は「おっちゃんは草が嫌い?」と聞いてきたので、「嫌いだよ」と答えました。 さらに「それなら花は好き?」と聞いてきたので「好きだよ」と答えました。すると「ふーん、私は雑草も花も大好きだよ」と答えました。この言葉に「はっ」とさせられました。 大人になりますと、境内の雑草は忌々しく見え、自分が育てた花は好ましい存在に見えます。一方で、純粋な心で見れば、花も雑草も変わらず美しい存在に見えるのです。この無差別の心こそ「仏心」だと思います。
 以前、ニュースを見ていますと、「孤独死」について特集されていました。ある例では、離れて暮らしている母親が孤独死をし、行政が娘さんに連絡をせず火葬を行い、合祀墓にまで納めてしまったというのです。 また、ある例では、近所に住んでいる独身の兄からしばらく連絡がないということで自宅を訪ねたところ、人の気配がなく、警察に問い合わせたところ、こちらも同じように行政がすべてを終わらせていたとのことです。二例とも納骨後に判明しており、弔いをする機会を失ってしまい、ご家族は大変悲しんでおられました。 このように、ご家族がいるにもかかわらず孤独死される方が年々増加しており、ご遺体の安置、火葬、合葬費用を合わせると、京都では年間六十億円の経済負担になっているそうです。日本人の命の尊厳が失われつつあるように感じました。
 最後に「主人公」という禅語をご紹介します。昔、瑞巌師彦和尚が自ら「おい主人公」と呼びかけ、自ら「はい」と答えていました。「目を醒ましているか」「はい」、「人に騙されてはいかんぞ」「はい」と、自問自答されていたというのです。 世間で主人公といいますと、アニメや映画の主役を思い浮かべます。特別な出自で、特別な才能を持ち、特別な力に目覚めた主人公が、仲間に支えられ、苦難を乗り越え、目的を成し遂げていく。そうした物語が王道です。 主役を支える役が脇役、そして脇役にもなれない通りすがりの人々は「モブ」と呼ばれます。私たちはそうした存在に目を向けることはあまりありません。しかし、画面には映らなくとも、その一人ひとりに人生があり、それぞれが精一杯に生きています。 何も特別なものを持っていないように見える存在も、それぞれの人生においては「主人公」なのです。
 さて、はたから見ると奇妙にも見える瑞巌和尚の「主人公」という呼びかけは、実は自らの「仏心」への呼びかけなのです。これを禅では「本来の主体的な自己」といいます。このことを常日頃から自覚しておられたのです。 昨今、社会の変化に振り回され、自分を見失い、尊厳を失いかけている私たちも、この瑞巌和尚のように「主人公」を自覚するひとときを持ちたいものです。 特別なものを持っていてもいなくとも、花が咲いても咲かなくとも、私たちはありがたい仏心を持っている主人公なのです。 今月はお盆でございます。名前も知らないご先祖様も、お一人お一人が主人公としての人生を歩んでこられました。どうか手厚くご供養いただければと存じます。


TOP