●獅子吼

令和4年6月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 私は学生時代にご縁があって、臨済宗大本山大徳寺の塔頭寺院で下宿をさせて頂きました。住職の和尚様は大変厳格で、学生や小僧が怠けたり間違ったことをすれば、ライオンの如く喝し、その声は山内に響き渡ります。こちらが即座に平伏(へいふく)して「申し訳ございませんでした!」と謝罪すれば、まるで何事もなかったかのように治まります。和尚様の性格はネチネチと尾を引くこと無く、大変からりとされておられました。しかし、この声を聴くと恐ろしく「同じ過ちは二度と繰り返さないぞ」という気持ちになりました。
 さて、今回は「獅子吼(ししく)」という禅語をご紹介させて頂きます。獅子(ライオン)が吼(ほ)えると書きます。このようなお話が残されています。
 ある人が偶然にも、かわいい子獅子を捕らえました。そして、ちょうど山羊の子を育てていたので好奇心に駆られ、試みにその仲間に入れて育てることにしました。幸いに親山羊は子山羊と同じように乳を飲ませ、また子獅子もよくなついて、次第に成長していきました。
 ある月が輝く晩のことです。子獅子が前方の大きな黒ずんだ山をジッと眺めておりますと、あたかもその時、やまの彼方から一声高く親獅子の咆哮(ほうこう)するのが聞こえてまいりました。この咆哮を聞くや、子獅子はブルブルッと身震いをしたかと思うと、未だかつて発したことのなかった一声をあげるや、まっしぐらに山の彼方めがけて駆けて行ってしまいました。
 それから数日後のこと、子獅子は再び山羊のところへ姿を見せましたが、この時はもはや以前の子獅子ではありませんでした。しばらく山羊の親子が遊んでいるのを、いかにも感慨深げに見ていましたが、別に危害を加えようともせず、やがて山の方へ帰って行ってしましました。
 これは、子獅子は久しく山羊と同じように育てられて、獅子の本性を失っていたけれども、一たび親獅子の咆哮を聞いて自覚が付いたときには、完全に百獣の王たる獅子の性格に帰ったということであり、非常に考えさせる話であります。(『茶席の禅語(下)』)
 ここでの、親獅子は佛(ほとけ)様であり、獅子吼は佛様の説法、獅子の本性は佛性(ぶしょう)を例えております。
 私たちは誰でも、佛様と寸分異ならない佛性を持っているのですが、それが妄想執着のために見えなくなっています。ですから、佛様や祖師方の獅子吼を聞いて、佛性を自覚して、自己本来の姿に立ち返らなければなりません。
 獅子吼といいましても、雄弁な説法に限らず、振る舞いや働きもそうですし、また大自然も言葉を発することなく、私たちを導いて下さっています。そろそろ鳴き始めますセミの大合唱も大獅子吼に他なりません。


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