●自らの煩悩にきづく その1〜3

令和2年5〜7月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

  その一

 今月は長期休暇がございますが、休みの日が長ければ長くなる程、仕事や学校が始まると、その反動も大きく心身の調子を崩し五月病になる人が多くいらっしゃいます。とある主題歌で「楽あれば苦もあるさ」といいますが、極端な楽は極端な苦の原因にもなります。煩悩(ぼんのう)があればあるほど苦しみも増すわけでございます。

 さて、今回から数回に分けて煩悩の紹介をさせていただきます。一般的に煩悩の数は一〇八個といわれていますが、実は一五〇〇個もあるそうです。しかし、それらを全て紹介することは不可能なので南方佛教(なんぽうぶっきょう)で親しまれている綱要書(こうようしょ)『摂阿毘達磨義論(アビダンマッタサンガハ)』「不善心所(ふぜんしんじょ)」に挙げられている十四個を紹介させて頂きます。煩悩の種類を知ることで皆さまも知らず知らずの内に心の中に生まれる煩悩に「きづく」事ができるようになります。「きづき」はこれ以上煩悩を増やさないがための門番の役割があります。少しでも苦しみを和(やわ)らげられるように心がけて頂ければと思います。

 一個目は痴(ち)です。これは無明(むみょう)という根本煩悩です。三宝印(さんぽういん)等の教えを知ろうとしない暗闇の中で迷っている状態です。世の中は常にうつろう「諸行無常(しょぎょうむじょう)」であり、うつろうからこそ不変なる確固たる実態は無い「諸法無我(しょほうむが)」であり、世の中は苦しみの連続である「一切皆苦(いっさいかいく)」といった教えへの無知をいいます。常に変化してしまうのに、自分にこだわり、自分の体や所有物に執着をしてしまい苦しみを生んでしまうのです。しかし、これはいくら知っていてもお悟りを開くまで消えることがありません。それほど根深いからこそ根本の煩悩なのです。

 二個目と三個目は合わせて無慚愧(むざんぎ)といいます。自分自身にも他人にも自制することが出来ずに悪行をしてしまうことです。『涅槃経(ねはんぎょう)』においては「慚(ざん)はみづから罪を作らず、愧(き)は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥(しゅうち)す、愧は発露(ほっろ)して人に向かふ。慚は人に羞(は)づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず」と、無慚愧を強く戒めています。悪行をしそうになった時に「これは恥だ」とういう「きづき」のブレーキを踏む必要があります。「恥」が無ければ、平気に人を傷つけたり、盗みを働く人間になりかねません。

 四個目は、掉挙(じょうこ)です。頭に血が上り正常な判断力と落ち着きを失い、焦(あせ)ったり緊張したり混乱状態の心をいいます。これは気の弱い人なら誰もが経験することではないでしょうか。肝っ玉の小さい私も経験があります。大切な法要や行事、法話などの人前に出なければならない時には気持ちが揺(ゆ)れて中々落ち着かない状態となり、時には頭が真っ白になることさえあります。佛教的にはこれも煩悩の一つのようです。幸いにもこれを少しだけ抑える方法があります。一つ目は、はじめに申しました「きづき」です。混乱している心を「これは掉挙だ!」と客観視することで、余裕が生まれるはずです。二つ目は、坐禅です。心を落ち着かせるにはまず身体と呼吸を正す必要があります。どっしりと坐り、背筋を伸ばし肩の力を抜き、意識を茹(ゆだ)っている頭から臍(へそ)下の丹田(たんでん)に降ろします。そこからゆったりと長く息を吐きだします。出来るだけ何も考えずに呼吸の数を「ひとーつ、ふたーつ」と数えます。そうすると自ずと心が落ち着いてくるはずです。

 その二

 今月は梅雨(つゆ)の時期です。雨がしとしと降りジメジメして不快な思いをされる方もいらっしゃるかとおもいます。しかし、この時期にしっかりと雨が降らないと、お野菜などの作物がきちんと育たず、また夏には水不足になります。町に暮らしている人にとっては不快な雨ですが、お百姓さんにとっては恵みの雨でもあります。人の立場や心もちによって見え方が変わってくるのは面白いですね。
 さて、先月から続き五個目の煩悩(ぼんのう)から紹介させて頂きます。

 五個目は貪(とん)です。目耳鼻舌身の五官(ごかん)が触れるものに対して、あれが欲しい、これが欲しい、こうなって欲しいと思う欲(よく)の心です。誰もがもっている心ですが、程ほどのところで留めておかなければ、盗みを働いたり、ストーカーをしたり犯罪者になってしまいます。普段から「少欲知足(しょうよくちそく)」の心がけが必要です。完全に無欲になりましょうというのではなく、欲を少なく現在持っているもので満足しましょうという意味です。

 六個目は見(けん)です。自分流の考え方に固執(こしゅう)する心です。自らの主張を持つことは大切ですが、それが行き過ぎますと、人の意見に耳を貸そうとせず、軋轢(あつれき)を生むことになります。遂には孤立をしてしまします。

 七個目は慢(まん)です。自分と他人を比べてしまう心です。自分の方が頭が良い、稼ぎが良い、スタイルが良くて美人だと、自らを上に見る心を高慢(こうまん)といいます。反対に自分の方が頭が悪い、貧乏だ、ずんぐりむっくりで不細工だと下に見るなら卑下慢(ひげまん)といいます。

 八個目は瞋(しん)です。目耳鼻舌身の五官(ごかん)が触れるものに対して、あれが嫌い、これが嫌い、こうなって欲しくないという反発の心です。これも誰もが持っていますが、程ほどのところで留めておかなければ、暴言を吐いたり、人を殴ったり、時には殺人を犯すことになってしまします。「慈悲(じひ)の心」を普段から育む必要があります。母親は子供に対して、この子が産まれてきてくれて良かった、この子の喜びが自分の喜びであり、この子の苦しみが自分の苦しみである、どうか元気に育って欲しいと、思う心こそが慈悲の心です。中々できることではありませんが、この心を生きとして生ける全ての人々にも持てることが大切です。

 九個目は嫉妬(しっと)です。自分に無いものが他人にあることに対する怒りの心をいいます。慢の心と共に現れ、自分との境遇を比べてしまいます。人の幸せな話を聞いて共に喜べない人が居ます。なぜか自分がバカにされたと怒り出す人もいます。比べて嫉妬してしまう人は外にばかり目を向けてしまい、本来の自分を生きているとはいえません。人間関係の苦しみの半分は比べてしまうことからきております。今の自分で満足だと「ありのまま」の自分を受け入れられる「自受容(じじゅよう)」が必要かと思います。中々難しいことです。

 その三

 夏になりました。これから段々と暑くなってまいります。「暑い暑い」「嫌だ嫌だ」と瞋(しん)の心で愚痴(ぐち)を言ってしまうことで、かえって苦しみを増やしているように感じます。古人は「暑い時は暑さをあるがままに受止めなさい」とおっしゃっていますが、中々そういう境地には至りません。熱中症にならない様にエアコンや扇風機を付けて無理をなさらない様にしましょう。
 さて、今回で煩悩(ぼんのう)の紹介は最終回をむかえます。

 十個目は慳(けち) です。自分のものや知識を他人にあげたくないという心です。一度手に入れたものを人に分かち合うのは勇気がいります。来月はお盆ですが、目連尊者(もくれんそんじゃ)のお母さんが餓鬼道(がきどう)に落ちたのもこの物惜(ものお)しみが原因です。分かち合いの心が大切です。

 十一個目は後悔(こうかい) です。過去にしてしまったことを、しなければよかったと嫌になる心をいいます。程ほどの後悔なら自らの反省に繋(つな)がりますが、これが行き過ぎてしまうと、過去にいつまでも縛(しば)られて、やる気が無くなり、くよくよして新しい行動に歩み出せなくなります。過去のとらわれが未来に悪影響を及ぼす忌々しき状況を生み出します。禅宗には「前後裁断(ぜんごさいだん)」という言葉があります。過去と未来に捉われず、今の一瞬一瞬に集中することが大切です。

 十二個目は昏沈(こんじん) です。心にやる気が無くなってしまい、ぼんやりとした心です。しなければならないことがあるのに、なにも考えず一日中布団の中にいたり、ボーっとしていつまでも見たくもないテレビをみたり、スマホをいじり続けたりします。こういう時はやる気が出るのを待っていても中々出てこないものです。ですから、心より先に、自分の体を動かせば勝手にやる気も出て参ります。太陽の光を浴びてウォーキングをしたり、庭掃除に一生懸命になるもの良いかもしれません。

 十三個目は睡眠(ずいめん) です。昏沈(こんじん)の後に生じる心です。規則正しい睡眠ではなく、やる気がなく眠くて眠くて不活発な状態をいいます。無意味な睡眠をすると日中の活動時間が減りますし、関節や頭が痛くなり良いことがありません。

 十四個目は疑(ぎ) です。佛の教えを疑う心をいいます。因果関係(いんがかんけい)、物事を順を追って見れないので、不安定な心になりますし、確固たるものが無いのでいつも空(むな)しく、得る者がありません。また、自分を信じられないことも疑です。古人は「祇(た)だ?(なんじ)の信不及(しんふぎゅう)なるが為に、念念馳求(ねんねんちぐ)して、頭(こうべ)を捨て頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能(あた)わざるのみ」とおっしゃっています。「自分みたいな煩悩だらけの人間は何もできない糞(くそ)だ」と否定して軽んじてはいけません。自分を信じないように教える教えは恐ろしいです。どんな苦境にあっても、この煩悩だらけの身であっても、自分は成し遂げるんだと自らを疑わず、佛の教えを実践しようと思うことが大切です。

 以上、三回にわたって煩悩を紹介して参りました。自分の心を顧(かえ)りみれば煩悩の塊(かたまり)であることがわかります。しかし、これを知ったからこそ、これからの人生を今までと違った「きづき」の目線で過ごせるのではないでしょうか。


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