●隠元禅師の師翁 密雲円悟禅師

令和4年4月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 四月三日は隠元禅師の三五〇年大遠諱(おんき)です。遠諱というのは五十年毎に執り行われる法要です。本来ならば全国の黄檗宗僧侶が大本山萬福寺に集結して大々的に宗風を鼓舞するところでありましたが、残念ながらコロナウイルスの感染状況を鑑みて、本山僧侶のみで執り行われることとなりました。
 さて、人が大成するには本人の精進も勿論必要ですが、やはり指導者との「ご縁」も大きいところを占めるのではないかと思います。高校野球を見ていても、良い監督が入られた学校は前年まで名前を聞いたことも無い学校であったのに、気が付けば頭角を現し強豪校の仲間入りをしております。禅宗では師匠選びのために、足を棒にして全国を行脚(あんぎゃ)して回るという風習があります。「?啄同時(そったくどうじ」という禅語があるように、親鳥と卵の中にいる雛と同時に突かなければ卵の殻を破る事ができません。お悟りを開くには師匠の叱咤激励と本人の精進の両輪が必要なのです。四月〜五月の「慧林」では、隠元禅師が師事された師翁「密雲円悟(みつうんえんご)禅師」と師匠「費雲通容(ひいんつうよう)禅師」をご紹介させて頂きます。
 密雲円悟禅師は、嘉靖四十五(一五六六)年明朝の江蘇省でお生まれになりました。八歳の時には念佛をあげるほど信心深く、十五歳にして自ら親を養い、十六歳で結婚します。二十九歳で世の無常を感じ妻と別れ出家し、臨済宗の幻有正伝(げんぬしょうでん)禅師に師事されました。学道勇鋭にして、志の徹悟を期して「円悟」と命名されました。そして、三十八歳にして山の頂上でお悟りを開かれました。その後各地を行脚して回りその名声は明朝全土に広まりました。万暦三十九年(一六一一年)四十六歳の時、幻有禅師より後継者と認められました。その後、亡くなった幻有禅師の追善供養を三年間にわたり熱心にされ、幻有禅師の住持をされていた竜池山禹門(うもん)禅院に入られました。その後、天啓二(一六二二)年天台山通玄寺に移られました。ちなみに天台山は天台宗発祥の地でもあります。この二年後、金粟山広慧寺に移られて境内を整備して、多くの修行僧が参集しました。その中の一人が隠元禅師です。厳しい指導の下たったの二年間で一人前の禅僧に育て上げられました。崇禎三年(一六三〇年)に黄檗山萬福寺(福建省)に移られる際に隠元禅師もそれに随従します。密雲禅師はその後五か月ほどで金粟山に帰られ、隠元禅師は随従せずに萬福寺の近くの獅子巌に住されました。密雲禅師は翌年には阿育王(あしょかおう)山と天童(てんどう)山の住持となりました。ちなみに大陸には南宋時代に制定された五山制度(ござんせいど)というものがあります。径山(きんざん)、霊隠(りんにん)寺、天童山、浄慈(じんず)寺、阿育王山という最も格式が高い五寺院が制定されています。密雲禅師はその中の二寺の住職に任命されましたので当時の仏教界において相当な影響力をもっていたことが分かります。天童山はかの有名な栄西禅師(日本臨済宗祖)や道元禅師(日本曹洞宗祖)が修行された寺院でもあります。密雲禅師は十数年留まり過去大洪水(十六世紀)により荒廃した天童山の伽藍を次々と再建し、また多くの修行僧の接化(せっけ)に励まれましたので、「臨済宗天童派」の一大拠点となりました。崇禎一五(一六四二年)最期は天台山通玄寺に戻り、坐禅を組んだまま遷化(せんげ)されました。世寿七十七歳です。密雲禅師は「臨済禅師の再来」と称され、「一条の棒を以て当頭に直指す」と言うが如く、「棒喝(ぼうかつ)」を指導に用いて「無位の真人(しんにん)」を直指(じきし)する厳格な宗風を残されました。十二人の弟子を残され、その中の一人が次回ご紹介する費雲(ひいん)禅師です。


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