●平常心是道

令和4年3月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 だんだんと温かくなってきました。皆様は春の到来を待ちわびておられたかと思いますが、私事で恐縮しますが、私はこの季節が大の苦手です。季節の変り目ということで体調を崩し易く、また手強い花粉がやってきて、くしゃみや鼻水に悩まされるからです。更に年度も移り変わりますので慌ただしく、慣れた環境から新しい環境に移らなければならない時期でもあります。私は学生の頃よりクラス替えというものが嫌いでした。初登校日には朝から緊張しており平常心ではいられませんでした。教室に入って知らない人間がおれば大いに委縮してしまうのです。初登校から一か月は縮こまってクラスメートとまともに会話することも出来ません。しかし、数か月もして慣れてくると平常心となり、冗談も言えるようになって馴染むことができるのです。友人には初めは何もしゃべらない人と思っていたのに、慣れてしゃべってみると面白い人やなと言われたものです。六年生のクラスのランキング?では、面白い人二位にランクされていました。しかし、この様にクラスにようやく馴染んだ頃には進級の時期がやってきて、また振り出しの過緊張状態からはじまるのです。
 さて、今月は「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」という禅語を紹介させて頂きます。これは禅問答集である『無門関(むもんかん)』の十九則にあるお話で、師匠の南泉禅師と弟子の趙州禅師との問答です。
 趙州禅師が「道」とは何かを南泉禅師に質問します。ここでの道とは、もちろん道路のことではなく、お悟りに至る「仏道」のことです。南泉禅師はそれに対して、「平常心こそ仏道です」と返答されます。「平常心」とは日常の「あるがままの心」をいいます。趙州禅師は更に「その平常心をどのようにして手に入れればよいのですか?」と尋ねます。南泉禅師は「手に入れようとすると平常心は逃げていくぞ」と答えます。趙州禅師は血相を変えて更に「手に入れようとしなければどうして平常心が道だといえるのですか?」と尋ねます。南泉禅師は「仏道とは知っている、知っていないという思慮分別の中には無いのだ」「それはまさに大空がからりと晴れわたっていてからっぽであるようなものだ」と答えられます。これを聞いて趙州禅師はお悟りを開かれたという話です。
 禅の修行は玉ねぎの皮をむいていくようなものだと言われています。今まで身に着けてきた常識や知識、我執、煩悩を剥いていくのです。剥き切った先に何が残っているのかというと、そこには何も残らず「からっぽ」ということになります。執着すべき自己というものは何も残らないということです。私たち人間は小さいころから学んで身につけようとします。しかし、この学んだ知識・常識によって思い通りになるどころか逆に縛られてしまい、不自由になることが多々あります。禅でいうところの平常心とは、身につけようとするのではなくて、その反対で身から捨てることによって現れるものなのです。


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