●帰る場所

令和3年8月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 皆さんには帰る場所がありますか?
 今年の六月、ミャンマーのサッカー代表、ピエリアンアウン選手が関西空港より帰国せずに、難民申請をされました。現在、ニュースでも報じられている通り、ミャンマーは軍隊がクーデターを起こし軍事政権となっています。この選手は日本代表との試合の際に三本指を立ててそれに抗議を示しました。このような経緯があり帰国することができなくなってしまったわけです。自らの境遇や国に残した家族のことを考えると大変苦しい思いをされていることと思います。いちはやく平和が訪れることを祈念いたします。
 さて、日本の小説家であり詩人である高見順さんが、このような詩を残されています。

 帰る旅

帰れるから 旅は楽しいのであり 旅の寂しさを楽しめるのも わが家にいつかは戻れるからである だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり どこにもあるコケシの店をのぞいて おみやげを探したりする

この旅は 自然へ帰る旅である 帰るところのある旅だから 楽しくなくてはならないのだ もうじき土に戻れるのだ おみやげを買わなくていいか 埴輪や明器のような副葬品を

大地へ帰る死を悲しんではいけない 肉体とともに精神も わが家へ帰れるのである ともすれば悲しみがちだった精神も おだやかに地下で眠れるのである ときにセミの幼虫に眠りを破られても 地上のそのはかない生命を思えば許せるのである

古人は人生をうたかたのごとしと言った 川を行く舟がえがくみなわを 人生と見た昔の歌人もいた はかなさを彼らは悲しみながら 口に出して言う以上同時にそれを楽しんだに違いない 私もこういう詩を書いて はかない旅を楽しみたいのである

高見さんにとっての帰る場所は、自然の大地と考えておられるようです。このように帰る場所を家や国とするのではなく、将来の人生の執着点と考えることで、人生そのものを楽しむことができます。

 また、浄土の教えには「倶会一処(くえっしょ)」という言葉があります。たとえこの世で大切な人を亡くしても、自分が亡くなった時、阿弥陀仏が迎えに来て、極楽浄土で皆と再会できるという意味です。死別してもいつかは必ず会うことができると信じることで、悲しい思いをしながらも人生をより励んで生きることが出来ます。

 最後に小林一茶さんの詩を紹介します。

 かたつむり どこで死んでも わが家かな

  背中の家と一体化しているカタツムリは、いついかなる時に死んでしまったとしても、常に家と共にあるということです。実は私達も同じように殻を背負っています。それはご先祖様から代々引き継いできたかけがえのない生命でありご縁です。これは切り離そうと思っても切り離すことができないものです。私達はいつも目には見えない大きなご佛縁という名の家に支えられて生きています。過去や未来という時間、距離という物理的な隔たりを超えたところに家を見出すことが禅的な生き方かと思います。


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