●隠元禅師の生涯

令和2年4月掲載

 ※原文は縦書きのため漢数字で表記しております。

 四月三日は隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師の命日です。大本山黄檗山萬福寺(京都府宇治市)においては開山祥忌(かいさんしょうき)を厳修(ごんしゅ)し、全国の末寺の住職やお檀家さんがご遺徳(いとく)をお偲びするために登檗(とうばく)されます。今回は宗祖(しゅうそ)でもあり佛日寺の開山(かいさん)でもある隠元禅師の生涯について紹介します。

〜明・清朝時代〜

 隠元禅師は明(みん)・清(しん)朝(現在の中国)の福建省福清(ふくせい)の出身です。一五九二年に林家の三人兄弟の末っ子として誕生されます。六歳の時父親が蒸発して世の無常(むじょう)をさとられ、これが出家の機縁(きえん)となります。二九歳の時、地元の黄檗山萬福寺(福建省福清)にて出家されます。ちなみに大本山の寺号はこの寺院を由来とします。有名な黄檗希運(おうばくきうん)禅師(不詳)も修行された古刹です。三三歳の時、当時の禅宗において最大の勢力を誇っていた金粟山広慧寺の密雲(みつうん)禅師(一五六六〜一六四二年)の弟子になられます。密雲禅師が福清の萬福寺に晋山されるに伴い随行(ずいこう)して更なる修行を積まれ、遂には兄弟子の費隠(ひいん)禅師(一五九三〜一六六一年)より印可(いんか)(お悟りの証明)を受けられました。その後、獅子巖(ししがん)にて修行された後、萬福寺に戻って来られ四五歳より七年間、五四歳より九年間住職を務められました。

〜日本時代〜

 江戸時代、長崎には三福(さんぷく)(興福寺(こうふくじ)、崇福寺(そうふくじ)、福済寺(ふくさいじ))をはじめ唐人が住職を務める唐寺(からでら)がありました。六一才の時、崇福寺の住職に招聘(しょうへい)されることになり慧林(えりん)禅師(佛日寺初代)をはじめ二〇人の弟子と共に来朝されました。当初は三年で帰国される予定でしたが、京都の妙心寺(みょうしんじ)元住持の龍渓(りょうけい)禅師(一六〇二〜一六七〇年)や竺印(じくいん)禅師(一六一〇〜一六七七年)の熱烈な引き留めにより帰国は能(あた)わず、上洛(じょうらく)されることとなりました。はじめの七年間は龍渓禅師の摂津普門寺(ふもんじ)にて過ごされました。その期間、龍渓禅師や麻田藩(あさだはん)主青木重兼(あおきしげかね)公(佛日寺開基)による江戸幕府へのはたらきかけにより、一六六一年、四代将軍徳川家綱(いえつな)公より現在の地を賜り、大本山萬福寺が開創されました。造営奉行(ぞうえいぶぎょう)に任命されたのは藩主重兼公で、明朝様式(みんちょうようしき)の寺院を本朝で初めて建立する大役から、萬福寺の造営に先立って一六五九年、領地に佛日寺を建立しました。「摩耶山佛日寺」の寺号は隠元禅師によって付けられたものです。萬福寺の住職を三年務められた隠元禅師は七三才の時、住持の席を弟子の木庵(もくあん)禅師(一六一一〜一六八四年)に譲られ、境内の松隠堂(しょういんどう)に隠居されました。そして、八二才の時、後水尾法皇(一五九六〜一六八〇年)より「大光普照国師」の号を受けられ、四月三日に遷化(せんげ)されました。簡単では御座いますが、紹介をさせて頂きました。 隠元禅師の伝えられた禅の教えが時代を経て各黄檗宗の寺院とお檀家さんによって大切に守られております。二年後は没後三五〇年となります。


TOP