寺院案内



●宗派

 福泉寺の宗派は黄檗宗(禅宗・臨済正宗)です。


 黄檗宗は日本三禅宗(臨済宗・曹洞宗)の一派であり、江戸時代承応3(1654)年に明国より来朝された隠元禅師により伝えられました。 元々は「臨済正宗」「臨済宗黄檗派」を称していましたが、明治政府の宗教政策により、現在の「黄檗宗」に改称するにいたりました。
 「坐禅」を修行の中心とし、「公案(禅問答)」を拈底(ねんてい)し、勤行法式では「般若心経」をはじめ「大悲呪」「往生呪」等の陀羅尼・真言や、 「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」等の念仏を口称し、明代禅宗の「禅教一致」の特色を色濃く伝えております。
 大本山は宇治に所在する黄檗山萬福寺です。末寺は全国に450ケ寺あり、北は岩手県、南は熊本県まで広く分布しております。


●ご本尊・脇侍

 本堂正面に阿弥陀如来座像、右手に如意輪観音菩薩座像、左手に梅嶺道雪禅師座像を奉安しております。ちなみに真言宗様なら「大日如来」、浄土宗様なら「阿弥陀如来」といった様に、ご本尊が厳格に決められておりますが、 禅宗においては各寺の由緒によって縁のある佛様を祀ることが一般的です。佛像とは一切衆生が悉く有している「佛心」の象徴ですので、既にご縁のある佛様をお祀りすることが大切であります。

■本当のご本尊は如意輪観音菩薩

 『登記簿』、黄檗文化研究所所蔵の『明細取調御届ケ』(明治37〔1904〕年提出)によると、ご本尊は如意輪観音菩薩と明記されています。どのようなご縁で阿弥陀様が当山に安置されているのか皆目見当もつきませんが、 仏様の立場において如来の方が菩薩よりも上位ですので、中央に阿弥陀様をお祀りしております。
 この阿弥陀如来坐像がどこから来られたか、ご存知の方は教えて頂ければと存じます。
 ※先代赤松和尚の長男さんによれば昭和38年時点で既にお祀りされていたとのことです。

■梅嶺道雪禅師

 梅嶺道雪禅師(1641〜1717)は福泉寺の勧請開山です。備前小城郡のご出身で7歳で郡の臨済宗広徳院梅隣禅師について修学されます。 明暦3(1657)年17歳に同郡西郷の三岳寺の長老について出家。万治2(1659)年に京都洛北の黄檗寺院定光庵に入り潮音道海禅師等と精進されました。 寛文3(1663)年大徳寺真珠庵主と共に即非如一禅師に参詣されます。その際の問答が機縁となり「梅嶺」の法名を受けて弟子となります。寛文13(1673)年には大眉性善禅師より印可・源流を受け、東林院住持、松隠堂塔主を勤められました。 正徳4(1714)年に遷化されるまでに20余ヶ寺の開山に請われました。世寿77歳。『黄檗文化人名事典』



●沿革

■開創時期

 『明細取調御届ケ』(明治37〔1904〕年提出)によると「享保三年拾二月四日開山梅嶺和尚創立ス」とあり、『大阪府全志』巻之三(大正11〔1922〕年発行)においては、 「享保年間曉雲和尚の徒弟萬谷和尚、十方の信施を以て再建し、祖翁梅嶺大和尚を請じて中興の開山とせり。」とあります。享保三年(1719年)に萬谷和尚が勧進して廃寺を立て直し、既に遷化されていた大師匠である梅嶺和尚を勧請開山に迎えられたということです。

■寺号「福泉庵」

 当初は「青雲山福泉庵」と号しており、現在の「宝珠山福泉寺」と号するようになったのは昭和に入ってからです。大正に発行された『西成郡史』と『大阪府全志』巻之三には未だ「福泉庵」とあり、昭和6年の台帳にも字体は違いますが同じく「福泉菴」です。 遅くとも「宗教法人福泉寺の規則」が大阪府知事赤間文三氏により承認を受けた、昭和27(1952)年9月1日までには「福泉寺」を号する様になったのではないかと思われます。明治37年には「本寺摂津国自敬庵末福泉庵」とあり、西三国の自敬庵(現在の自敬寺)の末寺の時代もありました。

■福泉庵の所在地はどこか?

 所在地は『明細取調御届ケ』(明治37〔1904〕年提出)によると「摂津國西成郡神津村大字新在家」とあります。これは現在の大阪市淀川区新高と同じ場所にあたります。
 まず「摂津國」とは、現在の大阪府北西部と兵庫県南東部にあたります。
 「西成郡」とは、現在の西成区という小さな括りではなく、大阪平野を南北に伸びる上町台地から西半分、北は神崎川までの地域にあたります。
 次に「神津村」とは、明治22(1889)年に西成郡の今里村・堀村・小島村・木川村・三津屋村・堀上村・野中村・新在家村が合併して名づけられました。
 「神津」は神崎川の「神」と、中津川(新淀川)の「津」の一文字を組み合わせて名付けられました。現在も神津神社や神津小学校に名前が残っております。
 大正11(1922)年には町制施行により「神津村」から「神津町」となり、大正14(1925)年には大阪市に編入され「新在家村」が遂に「新高」となります。

■昭和の住職

 昭和からの歴代住職は黄檗宗務本院への提出書類によって知ることが出来ます。昭和2(1927)年に服部承董和尚が兼務住職となり、続いて昭和18(1943)年に鈴鹿高久和尚が住職となるも在職わずか5年で第二次世界大戦にて戦死され、昭和27(1952)年に服部祖承和尚が住職となり、そして昭和36(1961)年に先代の赤松達明和尚が住職として入られました。

■謎の拝み屋さん

 赤松和尚の先代は書類上は服部祖承和尚のはずですが、貝島浄妙という老婆が戦中戦後に孫と共に本堂に寓居していたという話が新高に伝わっております。現在も本堂に御遺影が残っていますが有髪で真言宗の輪袈裟(三つ巴紋)を首にかけた衣躰であり、本山には僧籍記録がありませんので正式な僧侶ではなかったと考えられます。 弘法大師像を祀り「大坂新高大師講」なるものを組織したり、超能力を使えたという話も伝わっており、拝み屋さんとして地域に親しまれていたようです。
 赤松和尚の息子さんによると、大坂新高大師講はご詠歌の会であり、貝島さんが亡くなられた後もしばらく続いたようです。定期的に練習があり年に一度高野山のご詠歌大会に参加したそうです。
 御遺影の裏には「清凉院眞室淨妙大姉 昭和三十六年八月没」「この方は戦災に会って堺の方からたこの地蔵さんをしよてにげてこられ村の人がここにすみなさいといってあげた人で私達はそれを信じて来ました。いつから住んでおられたかは存じません。高須の和尚さんからも何も聞いてません。孫さんがおられますが養子に行かれて音信がありません」と書かれた紙が張り付けられています。
 この方がどの様な人物であったかご存知の方は教えて頂ければと存じます。

■福泉寺再興

 現在の伽藍となったのは赤松和尚の精励によるところが大きく、それまではボロボロの木造本堂がポツンと建っている状態だったとのことです。入寺して間もなく何者かに建物を破壊され、赤松和尚夫妻の尽力により昭和38年に右側の庫裏、昭和42年に本堂と正面の書院を建立されました。 境内に建立されている和宝塔の裏面には「福泉寺再興を機に一切衆生悉皆和平を祈願してこの碑を建つ」と刻まれています。平成6(1994)年には伽藍を再び整備され、ご本尊の修繕もされました。その後、赤松和尚は黄檗宗務本院にて、宗務総長を2期(10年)勤められて、平成20(2008)年11月に塔頭の宝蔵院にて遷化されました。 そして現在の兼務住職服部潤承和尚に繋がりますが、実質的には赤松和尚の奥さんが平成27年まで坊守を続けられました。



●福泉寺の歴代住職

 開山  梅嶺道雪 享保二(1717)年六月二日 遷化

 二代  暁雲元岫 享保十(1725)年五月二十日 遷化

 三代  萬谷  流 享保八(1723)年三月十六日 遷化

 四代  覺禅  全 安永二(1773)年閏三月十二日 遷化

 五代  袒林  燈 安永六(1774)年閏三月十六日 遷化

 六代  独産如稚 寛政八(1796)年四月六日 遷化

 七代  来宗眞活 天保十四(1844)年二月十四日 遷化

 八代  梅ー通香 不詳

 九代  黙要通斯 不詳

 十代  愍定弘信 不詳

 十一代 梅谷龍海 不詳

 兼務  服部承董 昭和五十一(1976)年五月十三日 遷化 

 十二代 鈴鹿高久 昭和二十三(1948)年一月二十六日 遷化(戦死)日

 兼務  服部承仁 昭和五十六(1981)年五月二十三日 遷化 

 十三代 服部祖承 

 十四代 赤松達明 平成二十(2008)年十一月 遷化


 十代愍定弘信(大橋愍定)和尚までの参考文献は黄檗文化研究所所蔵『攝津國本派世代表』です。十一代の梅谷龍海和尚は『明細取調御届ケ』、それ以降は黄檗宗務本院への提出書類を参考にしております。 兼務住職を世代にいれるかいれないかで世代数が変わってまいります。

 『黄檗宗鑑録』を見ると、二代曉雲和尚から六代独産和尚に嗣法されており、六代独産から八代、九代の二人に嗣されています。また、十二代高久和尚は自敬寺の亀山和尚の嗣法でであることが判明しております。